育 + 賢
TWO-KANJI WORD

「育賢」

イクケン

01
COMPOSITION

構成する漢字

02
READING

読み方

読みの候補

イクケン

各漢字の音読みを機械的に組み合わせた候補です。実在する語の正式な読みを保証するものではありません。
03
MEANING & USAGE

意味と使い方

毓賢(いくけん、ユシャン、Yuxian, 1842年 - 1901年2月22日)は、中国清末の官僚。字は佐臣。内務府満州正黄旗イェヘヤンジャ氏(yehe yanja hala、葉赫顔扎氏)。
光緒15年(1889年)、山東省曹州府の知府となり、3カ月で盗賊1,500人を殺害したことで名を知られるようになった。光緒22年(1896年)、山東布政使に昇進。光緒25年(1899年)に山東巡撫に就任した。
当時の山東省では排外感情が増し、光緒23年(1897年)にドイツ人のキリスト教宣教師2名が大刀会に殺害される曹州教案が発生して、李秉衡巡撫が解任された。そのような状況の中、山東巡撫に就任した毓賢は「民心用いるべし」として義和拳民を団練に編入し、合法組織の「義和団」が成立した。また義和団に「毓」字の旗を与え、義和団が教会を焼き討ちしキリスト教徒が殺害される現状を放置し、キリスト教徒が保護を求めても無視した。そのため外国の圧力で政府から解任され、袁世凱と交代した。しかし解任後も北京で端郡王載漪・荘親王載勛・大学士剛毅らに義和団を利用するように勧め、西太后にも謁見した。
光緒26年(1900年)、山西巡撫に復帰。山西巡撫在任中に毓賢の排外主義は更に苛烈さを増し、義和団を使嗾して教会を焼かせ、宣教師を殺害させた。太原では46人の宣教師とその家族(11名の幼児を含む)、山西省全体では191人の宣教師が殺害され、1万人の中国人信者も殺害され、教会や病院225個所が破壊された。
同年、義和団の乱が鎮圧された後、連合軍は毓賢を戦犯に指名した。9月26日に毓賢は免職となり、新疆省へ流罪となった。翌光緒27年(1901年)2月22日、新疆に行く途中の蘭州で斬首された。

出典:Wikipedia日本語版

04
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